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2006年5月12日 (金)

ある政治家の死

5月12日14時、一人の政治家が70歳でこの世を去った。

大学を卒業したての、何の縁も無い僕を秘書に採用してくれた人だ。誰に対しても裏表のない、自分に厳しい、信念の人。そして人を信じ続けた政治家であった。

政治の師匠として多くのことを学ばせてもらった。政策の組み立て方、現場からの意見をしっかり聞き、決断するということ。官僚との付き合い方、同じベクトルの上で走れば、相乗効果を生むということ。

そして、学びながら実践出来たことは「湘南ナンバー」を担当秘書としてつくり上げたこと、アレルギー疾患の研究を進めたことです。

新しいことも、随分思い切ってやらせてもらった。秘書会活動における「派閥対抗運動会」。ブルガリア大使公邸での「ザ・ジャパニース花見」、公邸にゴザや出店、カラオケを持ち込み、日本の花見を再現した。ベトナム、カンボジアにODAの検討のために派遣された。

あっという間の8年間であった。

平成7年4月、運動期間、正味3ヶ月の状況で、横浜市会議員選挙に出馬し、落選した。

その時「落ちるのは当たり前だ。どれだけ選挙区のことを知ったいるんだ。出直してこい」と怒られた。

そうこうしている内に、この代議士は運輸大臣として初入閣した。事務所を抜けても、師匠のことは当然、気になる。専門分野である運輸大臣になれたことを、僕も本当に喜んだ。

平成11年の死に物狂いの再挑戦市会議員選挙、代議士は自民党組織本部長になっていた。このポストは全国の統一地方選挙をしきる役割だ。でも、僕の選挙にほとんど付きっきりだった。

今だに忘れない、当選が判明した時の代議士の顔を、本当に喜び、目に涙をためていた。

開票日翌日、代議士の所に挨拶に行くと「今日から人は、お前を見て、横浜という街をイメージする。自覚が足りない」といきなり怒られた。確かに、薄汚れ、擦り切れたスーツを着、ぼろぼろの黒い靴を履いていた。「威張ることではない、政治家としての自覚を持て」と、未だに解答を見つけれていない。

代議士が最初にルビコン川を渡り、選挙に出たのは横浜市長選挙。

伊勢原生まれの伊勢原育ちの人間が、横浜市長に立候補。飛鳥田革新市政、絶世時代に勝てるわけがない。横浜市政は、かつて自分が選挙に出たことがある街の話、横浜市政のことを良く聞いてきた。

そして、平成17年9月の衆議院選挙。出馬の相談に行くと「とにかく出てみろ」と言われた。このころ既に、体は癌に侵されていた。選挙戦最中にも応援に来てくれた。統一地方選挙と異なり、自分も同時期に選挙を戦っている。でも、人の応援に来る人だ。

そして開口一番怒られた。「たるんでいる」と。

今思えば、この時期、癌が転移し、体はボロボロの状況だ。それでも精神の力で戦う代議士にしてみれば、僕の姿は余りに、弱く、真剣さの欠如が感じられたことだろう。僕は余命いくばくも無いと宣言されていた代議士の気合を受け止めることが出来たのであろうか。

当選後、挨拶に行った時「お前は自民党の追い風があるにも係わらず比例で受かった。次回は小選挙区で受かってこい。それに全てを賭けろ」と言われた。

本当に厳しい人だ。

でも、本当に心配してくれる人でもある。最後の思い出は、代議士の政治資金パーティーで衆議院議員として司会が出来たこと。そして何より平成18年、厚木で催された代議士の新年賀詞交換会席上で、僕のことを「福田は小泉チルドレンではなく、亀井チルドレンだ」と言われたこと。

僕は「亀井チルドレン」として、必ず代議士の期待に叶うような政治家になってみせる。そのためにも、次期衆議院選挙はどんなことしてでも、小選挙区で勝ち上がりたい。そして、まだ解答が見つからない「政治家の自覚」というものを捜し求めたい。

衆議院議員亀井善之代議士、本当に感謝しています。

天国から見ていて下さい。

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